今度の熱血教師は・・・タコ足超生物!?『暗殺教室』に見る教育の未来
※画像はスクリーンショットです。
マッハ20のスピードと無数の触手を持つ謎の超生物が、落ちこぼれ学級の担任になり生徒に暗殺を教える。
なんとも珍妙な設定のマンガが今話題になっている。その名は『暗殺教室』。
この不思議な作品は過去のマンガの良さを継承しつつ、同時に教育に関する現代の”いびつな感覚”を映しているように思われる。
では、その”いびつな感覚”とは一体何なのであろうか。考えていこう。
■見ていてつらい最近の「学園モノ」
「スクールカースト」やら「いじめ」やらが何かと騒がれる昨今、「学校」という空間の殺伐とした側面がいやというほど意識させられているような気がしてならない。そういったイメージを助長しているのが最近の「学園モノ」のドラマであるように思う。
そこで描かれるのは、同級生からの誹謗中傷に怯える生徒の姿と、そのような状況を知りながら自らも組織の評価に怯えて生徒に関与しない大人の姿。
現在放送中の『学校のカイダン』でもまさしくこの状況を取り上げており、「大人に頼らず生徒自身が学校の問題に立ち向かっていく」様子を描いている。
このような作品では現実の「悲惨さ・不条理さ」が強調されているため、どこか「希望がない」という感じを受けてしまう。
そんな中、ふと私の目に止まったのが、ジャンプで連載されているマンガ『暗殺教室』だった。
■新しいけど、どこか既視感
『暗殺教室』は、ある落ちこぼれ学級が舞台。そこに「1年後に地球を滅ぼす」と宣言したタコみたいな超生物が担任としてやってくる。地球を守るため、生徒たちにはその生物を暗殺する任務が課せられるのだが、その凄まじいスピード(最高時速マッハ20)は世界中の軍事力をもってしても傷ひとつつけることができないほどのもの。そうしてついた呼び名は「殺せんせー(=殺せない先生)」。
落ちこぼれでやる気のなかった生徒たちだが、真摯に向き合ってくれる「殺せんせー」に、暗殺対象として、そして担任の先生として、次第に正面からぶつかっていくようになっていく。
「標的」と「暗殺者」という異常な関係性であるにもかかわらず、「殺せんせー」は「学校の先生」という職務を全うする。生徒に対して、勉強だけでなく自らを暗殺することについても、一人一人の個性に合わせたアドバイスを送るのだ。
こんな斬新な設定、他にはない。しかし私はこの作品を読んだ際、何か「こんな感じの作品があったな」といった印象を受けた。
■こんな熱心な先生どっかで見たな
『暗殺教室』を見たときに連想されたのは、『金八先生』や『ごくせん』といった作品だった。
これらの作品では、生徒と先生のきずなが、強く熱く描かれている。先生が生徒に一対一で向き合うことで、生徒もそれにこたえて自分にできること、自分が目指すべきものを掴んでいく。そういう物語が共通して存在するのだ。
『暗殺教室』は、設定が突飛でキャラクター性が強く出ている作品ではあるが、生徒と先生がともに苦しみながらも成長していく、「古き良き学園モノ」の物語を根底に持っている。だから、『金八先生』や『ごくせん』の延長線上にある作品として考えることができるのだ。
■現実の暗いムード
さて、最初に「スクールカースト」や「いじめ」という単語を出したが、そのような問題はなぜ起こってしまうのだろうか。
原因として多く言われているのは「自己肯定感の喪失」だろう。自己肯定感とは「自分にはこういう強みがあるんだ」とか「自分にはこういう役目があるんだ」という自覚を持つことである。
自分を肯定できない人は、雰囲気に流されやすくなり、ただなんとなくの「ノリ」を重視するようになっていく。そして「ノリ」に合わせられない人が一度迫害され始めると、いつしかそれは繰り返されるようになり、「いじめ」と呼ばれるものが出来上がってしまう。
■『暗殺教室』に見る「希望の光」
「古き良き学園モノ」に描かれる先生たちは、生徒自身を「受け入れ」彼らが「自己肯定感」を持つ手助けをしている。
そして、『暗殺教室』では、ほかの生徒の差別にもろともしない強い生徒の姿が描かれる。自分の能力を伸ばす場を見つければ、他者の評価などは気にするに値するものではなくなるのだ。
私はこのような物語が描かれることが、現実の暗いムードに対抗していくための「希望の光」になると考える。
子どもの味方になって、「新しい価値観」をもたらしてくれる存在を示すことが子どもたちに強い勇気を持たせてくれる。
そのような文脈から考えると、『暗殺教室』という作品の新たな魅力が見えてくるのではないか。
■少し視点を変えてみると
しかし同時に、そのような「古典的な熱血教師」がついに人間でなくなったということにも、目を向けるべきかもしれない。
単に人間の「熱血教師」は使い古されて作品にならなくなったのかもしれないが、見方によっては、もはや人間の「熱血教師」は存在し得ない、ということを暗示しているのではないか、とも捉えられる。
これこそ私の抱いた”いびつな感覚”であり、これからの教育に感じる一抹の不安でもある。
人間の大人は子どもの味方たりえなくなってしまったのだろうか。
この問いにどんな答えを用意してくれるのか、『暗殺教室』の今後の展開に注目してみようと思う。