伊藤計劃『ハーモニー』読者を機械に変える言語「etml1.2」とは
第30回日本SF大賞など数々の賞に輝き、2015年には劇場版アニメ化が予告されている『ハーモニー』(伊藤計劃著)。「etml1.2」という架空のプログラミング言語によって記述された一風変わったSF小説だ。言葉だけに依らずetmlの「タグ」によって感情や論理構造が示される仕組みになっている。
しかし、ある見方をすると、このギミックは単なる文章表現の工夫ではなく、作品に対する読者の立ち位置をあらかじめ規定しているといえる。だがその話をする前に、まずはあらすじに触れておきたい。
本作のあらすじ
※画像はスクリーンショットです。
時代は21世紀の後半。21世紀初めの地球規模での「大災厄」の末、人類はテクノロジーによる高度な医療厚生社会を築き上げた。あらゆる病気が駆逐され、「見せかけの優しさや倫理」に満ちた“ユートピア”。しかし、ある事件をきっかけに、人類は内に秘めたる生存欲求と殺意に向き合うことになる。
主人公の霧慧(きりえ)トァンは本作の語り手として、たびたび読者に問いかけながら淡々と物語を進めていく。
「etml1.2」による独特の表現
先ほど述べたように『ハーモニー』の大きな特徴は、架空のマークアップ言語「etml1.2」によって記述されていることだ。本文には、
<declaration:anger>
<「わたしたちはどん底を知らない。
どん底を知らずに生きていけるよう、
すべてがお膳立てされている」>
</declaration>
のように、記号とアルファベットが埋め込まれている。これが「etml」だ。
未来のetmlと現代のHTML
Photo by David J Morgan
etmlは、実在のマークアップ言語「HTML」をモデルとしている。
端的に言えば、HTMLは「ウェブページを作るための言語」。例えばテキストを<strong>と</strong>で囲むことで該当部分を太字にしたり、<img>タグや<a>タグを使えば画像やリンクを挿入したりすることができる。
このように、「タグ」と呼ばれる特定の文字列でテキストの各部分を囲む(マークアップする)ことによって、私たちがふだん目にするウェブページを構成することができるのだ。
HTMLの正式名称は「HyperText Markup Language」である。「HyperText」(ハイパーテキスト)とは文書同士を結びつけ相互に参照できるようにする仕組み。この仕組みのおかげで、私たちはウェブページからエウェブページへとネットサーフィンすることができる。
一方『ハーモニー』で使われたetmlは「Emotion-in-Text Markup Language」の略称。「テキストのなかにエモーション(感情)を記す言語」ということだ。先ほど挙げたこの文章をもう一度見てみよう。
<declaration:anger>
<「わたしたちはどん底を知らない。
どん底を知らずに生きていけるよう、
すべてがお膳立てされている」>
</declaration>
anger(怒り)という属性を持つ<declaration(宣言)>タグで括られた文章。なんの飾りもないプレーンテキストに「怒りの宣言」という意味付けをしている。
その他にも、作中では主人公の恐れを表す<fear>タグや驚きを示す<surprise>タグなど様々なタグにより感情がマークアップされている。
また、感情とは関係のないタグも多く使われている。箇条書きを示す<list>タグ、用語説明の際に使われる<dictionary>タグ、映像再生時の<movie>タグなどだ。このような文書構造の記述やコンテンツの埋め込みはHTMLの中心的な機能でもある。
etmlはHTMLを基本にしながら同時に感情を表すように機能拡張した言語と言えるだろう。
どうして感情をマークアップする必要があったか。それは本編で明かされるのでお楽しみに。
『ハーモニー』はetmlのソースコード
さて、ここまで述べたように『ハーモニー』はetmlというプログラミング言語で書かれている。つまり本作はetmlの「ソースコード」(プログラミング言語により書かれたテキスト)といえる。
ソースコードは、本来は何らかのソフトウェアに読み込ませる文字列であり、ふつう人間がそのまま読むものではない。
HTMLであれば、Internet ExplorerやGoogle Chromeといった「ウェブブラウザ」が、HTMLで書かれたソースコードを読み込む。そして、例えば<strong>タグで囲まれた部分は太字に、<img>タグは画像に変換され、人間がウェブページを視覚的に読めるように表示されるのだ。
▼当ページのソースコード(一部)
ソースコードはふつうウェブブラウザとエンジニアぐらいにしか読まれることはない。ましてや、ソースコードの最初から最後までを小説のように一字一句逃さずに読み込み解釈するなど、エンジニアですらしない。それはウェブブラウザの仕事だ。
『ハーモニー』の話に戻ろう。
読者は「機械」にされている
本作の読者は、人間が読むために整えられたページではなく、本来はソフトが読むはずのソースコードを意図的に読まされている。
ということは、読者は知らず知らずに「機械」にされているのではないか。作中で語り手がたびたび使う「あなた」とは、私たち現代の読者のことではなく、他に真の読者が存在するのではないだろうか。
「真の読者」が不特定多数なのか、特定の誰かなのかは分からない。しかし、この物語が21世紀後半以降の人間に向けて語られたものだということは、作中で明かされる「etmlの存在理由」から推測できる。
そう考えると、物語は近未来の語り手である「わたし」、同じく近未来を生きる真の読者(=「あなた」)、そしてそのあいだを媒介するソフトウェア(=現代の読者)という奇妙な構図でできあがっているということになる。
つまり、etmlは単に感情や文書構造を示すものではない。私たち現代の読者を、未来の語り手と読み手をつなぐ機械に変えてしまう壮大な仕掛けであるのかもしれない。
●『ハーモニー』 (ハヤカワ文庫JA)