情報の濁流に飲み込まれないために―SNS時代の新たなリテラシーとは?
SNSの普及は、私たちの情報との関わり方を変えました。
個人から企業まであらゆるレベルで発信される情報が、リアルタイムでタイムラインに並び、そして瞬く間に消費されていく時代。
そんな時代に求められるリテラシーを、もう一度見つめ直します。
お話を伺った相手は、日本テレビの清水潔さん。
清水さんは、地道な独自取材による調査報道で数々の実績を挙げているジャーナリストです。
2008年には、足利事件(1990年に起きた女児誘拐殺人事件)での警察と検察のずさんな捜査や、科警研によるDNA型鑑定の問題点を指摘するキャンペーン報道を開始。
その後おこなわれたDNA再鑑定で、犯人とされていた菅家利和さんの無実が発覚します。そして逮捕から17年以上が経った2009年、ようやく菅家さんは釈放されました。
前編となる今回は「SNS時代における情報との付き合い方」についてお聞きし、次回の後編では「現在とこれからの調査報道」について伺います。
Twitterは小回りの利く便利なツール
大山(インタビュアー):
清水さんはSNSを使っていますか?
清水さん:
自分の名前を出してやっているのはTwitterだけです。
これは日本テレビ社員ではなくて、あくまで個人の名前でやっているもので、会社の仕事とは切り離している形にはなっていますね。
大山:
最近は安保法制についてツイートしていらっしゃいますよね。
清水さん:
そうそう。安保法制については個人的な見解なんだけど、テレビでは触りづらい案件なので。
やっぱりひとりの人間として、ひとりのジャーナリストとしては看過できないところがあるので、相当こだわってますね。
暴走する権力を抑止するために憲法は作られた。その憲法を、抑止される側の権力者達が勝手に解釈変更することは許されない。
— 清水 潔 (@NOSUKE0607) July 23, 2015
大山:
その一方で猫の写真とかもリツイートしていらっしゃって(笑)
清水さん:
そうそうそう(笑)。政治的ツールという意味合いではまったくないので、自分の関心のあること、ラーメン屋とか、そういう情報を自分のなかで覚えておくためにもやってます。
たまたまこの3ヶ月くらい、安保法制についてちゃんとウォッチしなきゃいけないと思っているので、いまはそれが中心になっているんだけど、それを目指してやっているわけではありません。
自分がこれまで出した本の内容に関して変化が生じたときに、小回りが利くメディアとして何かを持っていたほうがいいと思ってやっています。
本ってそのままだと出しっぱなしになってしまうでしょう? ところが、中身は進行中のものがあったりするわけで。
たとえば前の本で書いた「飯塚事件」で新展開があるときはテレビでも発信するんだけど、本を読んでくれた人が必ずその放送を見るかどうかはわからない。
テレビ以外の方法として、小回りの利くツールとしてあったほうがいいだろうということでTwitterでも発信しているんです。
「いま自分はどこの何を見ているんだ?」ということを意識する
大山:
SNSの普及により、 かつてない速度で莫大な量の情報が行き交うようになったいま、どのような情報に信頼を置いていますか?
清水さん:
実名や企業の名前で書かれたものは比較的よく見るようにしてるし、そのなかで「これはみんな知っておいた方がいいよね」っていうものがあればTwitterで紹介しています。
逆に、匿名のものは基本的に信頼してません。匿名だとやっぱり、どういう人が書いたのかわからないっていう危険がある。
猫とかラーメン屋とかはさておき、拡散していったら世の中に影響が及ぶようなものに関してはやっぱり慎重にならざるを得ないなと。
それに、SNSでは情報が拡散すればするほど、情報発信に対する責任が薄まってしまいますよね。
「あれ、これおもしろいね!」って思って衝動的に拡散したけど、後から見ると本当なのか怪しい情報だったりする。だから、たまにSNS上でデマが広まったりするんです。
特にニュースを扱うときは必ずソースをたどっていかなきゃいけない。リンクをたどって、たとえば「このツイートは、日刊ゲンダイの記事から引用したんだな」とか「東京新聞を引用してるんだな」とか。
見る側の人たちもそういうところをチェックしていかないと。「いま自分はどこの何を見ているんだ?」という興味がもっと必要だと思います。
大山:
Twitterやキュレーションアプリでの私たちの行動って、「アプリ上で面白そうな見出しを見かけたらリンク先に飛んで、表示されたものを読み終わったら閉じて、またほかの面白そうな話題を探す」というパターンが多いと思います。
そういう人が増えて、「この記事はどこのものなのか」っていう意識が薄まっているんじゃないかなと。
清水さん:
その意識が薄まっているというよりは、習慣づいていないうちにツールを手にする人が多いのでしょう。
リンクを開かずに引用だけ見て分かった気になって、どんどんリツイートする人も多い。開いてみるとすっごい情報量がそこにあるものを、誰かが「ざっくり」してるわけです。
編集能力の高い人がざっくりしてくれたらいいですよ。最初の原文の主たる部分とか大事な部分を抽出して、書いた人の気持ちをしっかりわかったうえできちんと編集してくれているものだったらいい。
けど、下手したらぜんぜんトンチンカンなところとか面白いところだけを抜いているケースもありうるわけでしょう?
ネットでもSNSでも、編集した人には当然責任がある。
たとえばこれがテレビ局の場合には、何かあれば電話がかかってきたりメールが届いたりして視聴者に怒られます。
けど、ネットだと書きっぱなしだし、それに対して真剣に怒る人はあまりいない。だからいまいち責任感が弱い気がして。
大山:
ネットでは個人レベルで情報が発信できるようになりましたしね。
清水さん:
そうですね。そのことはまったく悪いことではないんです。
むしろメディアは片方向ではなく、双方向であるべきだと思うんですよ。誰もが世の中に向けていろんなことを発信していくことっていうのは、表現の自由においてとても大事なことだと思うし。
でも、塀のウラから石を投げるような、ビルの上からビラを巻くような、誰が書いたかわからないような形はやめた方がいい。
誰が書いたのかとか、どこのサイトかっていうのを最低限表示すべきだし、それができないものの信頼度は極めて低いんだってことを、みんなが分かってた方がいいと思います。
そのうえで「アテになんない話なんだけど、こんな面白いことが書いてあったよ」とか、「でもこっちは新聞が自社の名前で書いている記事だから、偏りはあるかもしれないけど少なくともデタラメはないだろうな」とか。
そういう意識で情報を区別する必要がある。これはぜひ見る方が身につけておいたほうがいい、大事な部分じゃないかと思うんですよね。
報道はフィクションではありえない
Photo by Bradley Gordon on flickr
大山:
清水さんが扱っているテーマは、刑事事件などのとてもセンシティブな話題が多いと思います。
情報の正確さにこだわるのは、そういう深刻なテーマだからこその姿勢なのでしょうか?
清水さん:
いや、これはテーマ関係ないですよ。報道の原則というのは真実性なんです。そこが揺らいでしまったら、何のためにやっているのかわからない。
別に真実が偉いって言っているわけじゃなくて。たとえばバラエティは真実である必要はありません。ドラマや小説も真実である必要はないでしょう?
でもその一方我々がやっている報道っていうのは、事実を要求されるものなんです。
だから、この間にピシッと線を引かなくてはいけない。
ここが生命線です。だからこそ、報道の領域では、徹底して真実性を追求しなきゃならない。ここ間違っちゃうとデカいですよ。
大山:
ネットニュースでも、「ニュース」という言葉を使う以上は、報道の原則に従わないといけないと。
清水さん:
もちろんそう。
たとえば、小保方さんのSTAP細胞問題。あれは最初、「理研のすごい人がSTAP細胞を発見しました」という風に報じられた。でもそれからだんだんおかしくなっていって、現状ではどうやらSTAP細胞はなかったんじゃないかっていう結論に到達しましたよね。
テレビや新聞はそれを気づいたときにどんどん報じてくわけです。どんどん更新していく。
だから途中までの報道は、いま考えると誤報だったわけですよ。でも最後のところまでちゃんとやっていることによって、真実に近づけている。
これが報道の考え方です。これをパッケージとして見ていただきたいというのが僕らの思い。
たとえば新聞とかテレビはその日に流れておしまいということが多い。YouTubeとかに残る場合もあるけど、そういうケースはごく一部ですよね。
だから、たとえ途中までが結果的に誤報だったとしても、視聴者はより真実に近い最新のニュースを見てくれる。
でも、ネットメディアのニュースは、ネット上に半永久的に残る。あとから見たら誤報であっても、消さない限りは残り続ける。その責任性は大変なものだと思うんです。本当はそっちの方が難しいんじゃないかと僕は思う。
継続取材をして情報を更新し続けて、真実に近づけていく。ネットニュースでもやろうと思えば更新できるんだから、そういうことをやっていかないといけないんだよね。
取材・文/大山 慧士郎
『騙されてたまるか 調査報道の裏側』(新潮新書)
今月17日に発売された清水さんの最新著書。30年以上の取材経験のなかで清水さんが培ってきた「“真偽”を見極める力」が明かされる、記者人生の集大成です。