俺たちのバレンタイン~文系こじらせ大学生3人が織り成す妄想劇~
今日は年に一度の特別な日。
この日、世界中の男たちはいつも以上に機敏に動き、ロッカーや下駄箱、机の中をそれとなく開けたり閉めたりしている。
この日、男たちは待ち受けている。
気になるあの子が、甘くておいしい『あれ』を手渡してくれるのを。
※この記事は妄想です。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。
1.Oさん(早稲田大学4年生)の場合
(Photo by Masayuki Sugita)
俺の幼なじみが150円のチョココロネをくれたときの話。
一週間前。
「ね、来週ってバレンタインだよね」と休み時間に話題を出したのはSのほうからだった。
それは、リップクリームを塗るのをわざわざ中断するほどの話題だろうか。
「どうせ誰にももらえないし、興味ない」
俺はあくまで適当に、とりわけ何の感情も込めずに言った。
「とかなんとか言って、ほんとはチョコほしいくせに」
「いらないよ、甘いものとか…好きじゃないし」
…こいつには下手な嘘はつけないと知っていながら、俺は嘘をついた。
小さいころから甘いものは好きだし、それをSは知っている。
だからSはくすくすと笑って、「今年はあたしがチョコあげようかー?」なんて言って俺をからかってまた笑う。
俺とSは近所に住んでいて親どうしの付き合いもある、いわゆる“幼なじみ”なのだが、俺のほうはこいつとなじんだ記憶なんかなく、絡んでくるのはいつもSからだ。
小学校のころはチョコなんかももらっていたような気がするが、中学に上がってからはからかわれた記憶と馬鹿にされた記憶しかない。
そうして気づくとうっかり高校まで同じになってしまって、迷惑しているというのが本音だ。
そして今日の朝、駅でSに話しかけられてしまった。
同じ高校に同じ時間に行くのだからこればかりは避けようがない。
「あ、おはよう!」
Sの高い声が眠たい頭に響く。
Sはブレザーの上にベージュのコートを羽織ってこっちを見ていた。
こんなに寒いのにスカートの丈をわざと短くしていてむかつく。誰も見てないっての。
俺は適当に挨拶を返してすぐSから離れようとする。
「ねえ、チョコ!」
チョコが、どうした。
「忘れた!」
…俺は聞こえなかったふりをしてそのまま歩き続け、Sを完全に無視した。
Sには俺が怒っているように見えたらしい。
そして俺は自分がSがチョコをくれると期待したことを後悔していたらしい。
だから休み時間に話しかけられてもいつも以上にそっけなく、会話をしようとしなかった。
授業が終わって俺がそそくさと帰ろうとすると、下駄箱の近くでSが話しかけてきた。
「ねえ、O、もう帰るの?」
Sはなぜか息を切らしているようで、いつもより声が小さい。
「ごめん、これ」
Sが俺に渡そうとしているのはどうみてもふだん購買で売っている150円のチョココロネだった。
ビニールの包装に、申し訳程度に何かリボンのようなものがついている。
「チョコ、あげられなかった、から」
Sの声は震えているように聞こえた。
「あたし、いじわるするつもりじゃなくて、ごめん」
小さな滴が床に零れ落ちて、丸いしみをつくった。
どうやらSはそれで感情のダムが決壊してしまったらしく、以降日本語を話すことができなくなり仕方がないので俺はSを連れて帰ることにした。
家の近くまでくるとようやくSは落ち着いてきて、俺を責め始めた。
「ばか」とか「あほ」とか一通り罵ったあと、怖かった、もう二度と話してくれないかと思った、と言った。
Sの家につくと、俺を玄関で待たせてきれいな赤いリボンのついた、小さな箱をくれた。
部屋に帰って箱を開けると、手作りらしい小さなチョコレートがいくつかと、四つ折りになった便箋が入っていて、Sの丸っこい字で一文だけ書かれていた。
『来年もあたしがチョコあげるから寂しそうにするな』
寂しそうにした覚えはないが、来年もチョコがもらえると思うとうれしかった。
2.Kさん(早稲田大学2年生)の場合
俺はひたすら仕事に追われていた。
バレンタイン? チョコ? 誰かがでっち上げたそんな文化のおかげで、俺たち非リアは憂鬱な気分にさせられる。そんな暇なんかないっていうのに。
先輩は到底達成できない目標を立て、後輩は自分のことしか考えていない。クライアントはとつぜん無茶な要求をしてくるし、女子はメールやLINEにちっとも返信してくれない。
もうすぐ定時だっていうのに、仕事は当分終わりそうにない。
同期の女子が目の前の机でキーボードをたたいている。
彼女の黒い髪と白い肌がディスプレイのすきまから見えた。いつもの緑色のカーディガンと、その下には白いブラウスを着ている。
俺はふと机の下へ落としたものを取る、ふりをした。これが俺の仕事中の唯一の楽しみで、一日に三回くらいはやってしまう。ちょっとやりすぎなんじゃないかと思うくらい短いスカート。そのわりには見えたためしがない。
白を基調とした色気のないオフィスだが、彼女だけは輝いて見えた。
彼女はいつもそっけない態度を取る。俺に対してだけ。笑顔なんか見たことない。たしかに仕事はできるが、どこか冷めている。LINEの返信は「了解」だけのことが多い。
いつもの無表情&ナチュラルメイクでもけっこう美人なのだから、笑えばその顔はもっと美しくなるはずなのに、と思う。「あのー、終わりました?」
「あー、まだ」俺は彼女の質問に情けなく答える。ああ、俺は相変わらずダメなやつなんだ。
仕事を早く終わらせることができないから今こうやって残業なんかしてる。
仕事も、恋愛もできない男の人生に何の価値があるのだろう。
ふと、クリスマスにデートした後輩の女の子との思い出が頭をよぎる。
「私みたいな取り柄のない人間を好きになってくれて、ありがとうございます」
「私のことかわいいなんて言ってくれるのはKさんくらいです。嬉しいです」
それですっかり勘違いしてしまったのだった。
「Kさんってすごく優しいですし、私なんか足元にも及ばないような素敵な人と巡り会えると思います!!」
ばーか。
それから2か月が経ったけれどやはり後輩女子とはそれから何の進展もなく、連絡もなく、そのことがこの先はないことを物語っていた。
ああ、ルーティンワークを繰り返しているだけのこんな日常、終わってしまえばいいのに。
…やっと仕事が終わった。時計の針はもう22時を回っていた。
「俺、帰るけど、まだいる?」
「いえ。私ももう帰ります」
彼女と俺以外いなくなったオフィスから出る。居酒屋やバーの明かりだけが新鮮に見える。
歩道の白熱灯が街路樹を照らし、なんだか悪くない雰囲気に思えた。
彼女はいつもよりちょっと派手なマフラーを巻き、あったかそうなコートを着ている。
そういえば、彼女とこんなふうに二人で夜道を歩くのは初めてだ。
「あのさ、この後…」
「すみません!」
いきなり飛び出した彼女の言葉が、食事に誘おうと思った俺の言葉を遮る。
何もそんな食い気味で断らなくても……うつむきかけた俺に、ふいに彼女は赤いリボンのついた小さな箱を差し出した。
「これ! 今日、バレンタインなので…」
「えーっと…え? これって…」
本気かと疑って彼女の顔を見れば、彼女は顔を赤らめている。
「義理じゃないよ」
俺はあまりのことにたじろいでしまって言葉が出てこない。
「…えっと、ありがとう」
そうだ、食事に誘おうと思ったんだ。
「よかったらこの後…」
「すっごく恥ずかしい…! そのチョコ食べてね」
俺は走り去る彼女を呆然と見ていた。1人で家に帰り、部屋で箱を開けた。箱の中にはカードが入っていた。
『今度仕事じゃないときに会いたいな。好きです。』
3.Yさん(慶應義塾大学2年生)の場合
甘酸っぱくて、ほろ苦い。
今日バレンタインなんだね、と言って、彼女はガラス製のちいさな器をテーブルに置いた。彼女と住みはじめてすぐのころに、吉祥寺のある雑貨屋で買ったものだ。まるで初恋みたいに透明なその器のなかには、薄皮までていねいに剥かれたはっさくがはいっていた。
「チョコは?」と僕が言うと、
「はっさく。おいしいじゃん」
彼女はひとつつまむと、口にはいった髪を手で払った。一週間前に美容院に行ったばかりらしいが、それでもまだ長く、毛先は胸のふくらみに沿って垂れている。一週間前との違いがまったく分からない。
天気予報で今日は大雪だとさんざん騒いでいたくせに、外は気持ちよく晴れていた。おまけに暖かそうだ。テーブルをどこに置くか引っ越しの時に彼女とケンカになったが、ガラスの器の中で陽のひかりを受けてみずみずしく光るはっさくを見ると、窓際に置いてよかったと感じる。
僕は席を立って冷蔵庫を開け、
「何か飲む?」
「オレンジジュース」と彼女は言った。
「はっさく食べてんのにまたオレンジ?」
「えー、じゃあ紅茶にする……」
僕はポットに水を入れて、ラジオをつけた。
『――つづいてのお便りは神奈川県にお住まい、二十三歳男性の方〈私は中学三年のバレンタインが今でも忘れられません〉……』
男性にはどうやら番組特製ティーシャツが送られるらしい。彼は中三で素晴らしいバレンタインを経験し、その話で洋服までもらえるのだ。前世で何かいいことでもしたのだろう。僕だってもうすこしまともな前世を生きていたら、そんな青春が送れたかもしれない、と思う。思うだけだ。はっさくしか出てこないのも、それはそれで悪くない。
「バレンタインに思い出なんかある?」と彼女は言った。
「ないね……そういえば大学の入試、あれ十四日じゃなかった?」
「十五日だよ、だから次の日」
「よく覚えてるね、もう十年以上前なのに」と僕が言うと、彼女は微笑んでまたひとつはっさくを食べた。僕のぶんはもうほとんど残っていない。
手紙を読み終えるとナビゲーターは誰にでもできそうなコメントを短く言い、それからビートルズのイン・マイ・ライフが流れた。
「今日せっかく天気良いし、出かけようよ」と彼女は言った。
「そうしよっか、ひさしぶりに映画でも見に行く?」
「せっかく天気が良いんだから、って……」
僕はお湯とティーバッグをマグに入れて彼女に渡した。湯気はうずをまいて立ちのぼり、ほのかなダージリンの香りが部屋を染める。彼女は紅茶をすすり、映画でもいいけど? と僕を見て笑った。
結婚して四年が経つ。しかし平凡な毎日が過ぎていくだけで、忘れがたい記憶など片手で数えるほどしかない。そういう四年だった。どこからか子供の笑い声が聞こえてくる。ベランダにある植木鉢の葉が揺れ、雲が流れていく。
文/非リア3名